私を苦しめているのは誰?
イライラしたり、ムッとすること、
ありますよね。
私はそもそも気が短いので
瞬間的にそうなることはよくあります。
感情がブツブツと泡立ってしまい
まるで注いだビールの泡が
グラスのふちからあふれ出て
その泡が零れ落ちないよう慌てて口をつけ
味わうことなく泡を吸い込んでいる感覚です。
あふれる泡を吸い込みながら
もっと静かに注げばよかった!、とか
周りを汚したら大変だ!、とか
失敗してかっこ悪い!、とか
いちいち不快になっているイメージです。
自分が飲みたくて
わざわざグラスに注いだはずのビールなのに。
そのあふれてきた泡を吸い込みながら
一体全体、何に対して
苦しんでいるのでしょうか。
グラスは己の心、概念、
又は正義感でもいいですね。
そこに注いだビールは
外部からの情報や他者の概念、正義感、
そしてビールの泡は己の感情です。
そもそも飲みたくて注いだのだから
美味しくいただけばいいだけのことなのですが
私たちはどうも
「自分で選んでいる」という感覚が
乏しいように思うのです。
あふれさせるなんてもったいない!とか
こぼれて汚い!とか
泡ばかりで美味しくない!とか
ビールなんか飲まなきゃよかった!とか
とにかくどんな思いであれ
必死になって泡を吸い込んでいるけれど
そんなに嫌ならば
いちいち泡を吸わなくても
こぼれた泡は拭き取れば済む話ですし
なんならビールそのものをグラスから出し
別の飲み物で満たしてもいいわけです。
ビールはそのままでは泡が立ちません。
ビールそのものに問題があるのではなく
それが私という「器」に注がれ
己の概念と反応した瞬間から
問題は発生しているように思うのです。
知らぬが仏、とはよく言ったものです。
もちろん
知ることは大切ですし
無関心に生きろということを
言っているわけではありません。
情報に振り回されて
人や環境のせいにすることで
情動のままに生きるのか
情報を刺激と受け取り
自分で調べ考え取捨選択し
意識的に生きるのか
そういう部分に目を向けているかを
己に問うているのです。
そう思えば、
これはいったい
誰が起こした問題なのでしょうか?
私が他の誰よりも愛してやまない
ひと時も離れることなく私に寄り添い
私を「私たらしめて」くれる
「自我(エゴ)」の存在が
起こしている問題とも言えますね。
私を苦しめているのは
いったい誰なのでしょうか。
そんなふうに
改めて己に問い直すことで
あんなにイライラしていたことが
ひとつ、ふたつ、とクリアになり
とても穏やかな気持ちで
過ごせるようになると思うのです。
少なくとも私はそうするようになって
ずいぶん楽になりました。
最近はビールもほとんど飲まなくなり
お酒から足が遠のいていますから
溢れる泡すらも愛おしく感じます。
人間ってゲンキンなものですね(笑)
感情はこの身体からのギフトですが
いつも好ましい
贈りものがくるとは限りません。
ありがたく受け取るのか、
それとも
丁寧にご遠慮させていただくのか。
まずは自分に対して素直に生きることが
苦しみを手放す第一歩かもしれませんね。