宇宙に恋して

こころの声を紡ぎながら、目に見えない世界を探求しています。

人間になる

私は朝のルーティンを

「人間になる儀式」と思っています。

 

目が覚めたら

顔を洗って、歯を磨き、

髪を整えたら

神棚と仏壇にご挨拶。

 

その後、

20〜30分、瞑想。

 

ここまでが

「命」としての私が

「人間」になる準備段階。

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この後、ちゃんと

「人間」になりますから

どうぞご安心ください(笑)

 

瞑想の後、

メイクや着替えを済ませ

朝食代わりに

乳酸菌飲料とコーヒーを飲みます。

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この段階までくると

すっかり「人間」なので

周りと区別された「私」として

社会生活をスタートします。

 

もちろん

体調やスケジュールの都合などで

この通りではないこともありますが

これが一番スタンダードな朝の行動。

 

なにものでもない「命」である「私」が

「私という自覚」を持つ「人間」になる

とても大切なプロセスです(笑)

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仏教では「諸法無我」という

教えがあります。

 

ざっくり言うと

「この世に実体はない」ということを

説いている言葉です。

 

「実体」とは

以下3つの性質があるものを指します。

 

①それ自体だけで存在することができる。

②それ自体が変化しない本性・本質をもっている。

③いつまでも永遠に存在することができる。

 

私たちの「自我(エゴ)」は「私」という人間を

「実体」のあるものとして認識しています。

 

①と②なんとなくわかるけれど

③はいつか寿命が来るのだから

永遠に存在することなどない

…と知りながらも

明日も来月も来年も何年もずっと

自分は存在しているのだと

無意識のうちに思い込んでいるからこそ

何の迷いもなく先の予定を立てたり

まだ見ぬ未来や今後の人生に対して

不安や焦りを覚えたり。

 

そして、

その「実体」を失うであろう「死」に対して

恐怖や不安を覚えるのです。

 

仏教ではこの世の全てのものは

「縁起」によって顕れると説いています。

 

自分以外のものとの繋がりを失くして

存在することはないということです。

 

そもそもいきものとしての人間は

親がいなければ生まれてこないですし

生まれてきてからも空気や水、食べ物など

自分以外の何かがないと存在を維持できません。

 

そうなると、先程の①も

あてはらまらないことになります。

 

②はどうでしょう?

 

この世は諸行無常

変化しないものなどないと

仏教では説いています。

 

人間も持って生まれた

性格や性質はありますが

環境や生き方により

どんどん変化、成長していきますから

これも当てはまらないでしょう。

 

③は言わずもがな、

私たち全ての人間は

この身体を得た瞬間から

この身体と死に別れる日が来ることを

約束されています。

 

そんなわけで仏教の考え方では

「この私すらも実体がない」

ということになるのです。

 

こんなにリアルに存在を認識している

「私」というものはいったい何なのか?!

 

私に実体がないならば

全ては私でありながらも

全てに実体が無い…?!

 

そんなことを長年考えていると

社会生活を営むうえで

いろいろ支障も出てくるものですから

毎朝、「人間になる儀式」と称し

私という実体の無いものを

あえて具現化し

あたかも実体のあるように見立て

人生を楽しむことにしています。

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このような「ものごとの捉え方」を

仏教では「仮観」と言います。

 

全てはかりそめであることを知りながらも

ものごとを実在のものとして

認識するということを表します。

 

そして

この世は全て幻想で実体はないのだから

目の前にあってもそれは実在しない、

そのような捉え方を「空観」と言うのですが

人間というのはとかく極端になりがちなので

「無価値観」や「無気力」に苛まれたり

自暴自棄になってしまったり

どうせかりそめならばと

傍若無人に振る舞ってしまったり…。

 

そうなると

社会生活を営めなくなってしまいます。

 

この「仮観」と「空観」を

バランス良く取り入れたものの捉え方が

「中観」と言います。

 

実体はなくとも

区別されたひとりひとりが

お互いに宇宙を生みだす大切な存在である。

そんな視点に至るのが「中観」です。

 

そういう視点に立つことにより

全ての存在が大切であると

感じられるようになるのだと思います。

 

まさに「おかげさま」ですね。

 

人間になる、というのは

全てが「おかげさま」である

ということを知る大切な学びです。

 

たとえかりそめであったとしても

私が私として区別された存在であることが

学びの道であり、

自他共に豊かになる道なのだと

つくづく思う今日この頃です。