宇宙に恋して

こころの声を紡ぎながら、目に見えない世界を探求しています。

次のステージ

母の入院している病院は

いわゆる急性期医療を担っている病院です。

 

急性期医療とは

病気の発症から、進行を止める、

あるいは、

回復が見込めるめどをつけるまでの医療です。

 

完全な回復や、

社会復帰までの過程を

担当しているわけではありませんし

看取りのための施設でもありません。

 

覚悟はしていましたが

いよいよその時が来ました。

 

もともと心臓疾患で

身体障害者手帳を持っている母ですが

今回、腎機能障害の追加申請をするよう

病院のソーシャルワーカーから告げられたのです。

 

要するに母の腎臓はもう

機能回復が見込めないという判断が

医師から下されたわけです。

 

母がこの先、生きていくためには

人工透析を続けなければなりません。

 

更に

 

肺機能の低下から

人工呼吸器を外すことは死に直結するため

これも続けなければなりません。

 

事実上、

これ以上の回復は

見込めないということになります。

 

転院先を探し始めることになりました。

 

もう独居生活に戻れることはないので

母が暮らしていたアパートも

いつか母が帰る日のために

契約更新をしたばかりでしたが

残念ながら来月、引き払います。

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私の父は

13年前に肝臓癌で他界しているのですが

いわゆる「余命宣告」により

「延命治療の選択」について

決断しなければなりませんでした。

 

父はかねてから

延命治療は望んでいなかったので

医師の問いに対し迷うことなく

今後の積極的な治療は

全てやめるという選択をしました。

 

その日からガンの増殖を促す

高カロリー栄養の投与やめた結果

わずか5日後に

父はこの世を去りました。

 

臨終の瞬間、

父の死に対する悲しみよりも

父が苦しみから解放されたことに対する

なんとも言えない安堵感を覚えたことは

今でも鮮明な記憶として蘇ります。

 

母も父同様に延命治療は望んでおらず

術後に回復が見込めないとなったら

治療はやめて早く楽にしてほしいと

私に強く訴えていました。

 

しかし、

父のケースとは異なり

母の場合は回復が見込めないからといって

治療をやめることができません。

 

何故なら

ガンのように余命を宣告できるような

進行型の病気でもなければ

脳死状態でもないからです。

 

現状で回復が見込めないからといって

人工透析をせずに放置したり

人工呼吸器を外してしまうことは

殺人行為になってしまいます。

 

要するに

今後の容態急変時に

延命措置をとるかどうかの選択は可能でも

現在継続中の治療を

やめるという選択ができないのです。

 

後戻りもできず前にも進めず

現状を維持していかなければなりません。

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母は意識もあり

認知能力には問題がないので

こちらの話も理解できるし

自分の状態も理解しているため

その苦痛と苛立ちはどれほどのものかと

想像するだけで辛くなります。

 

面会で私の顔を見るたびに

涙を流す姿には正直かなり堪えます。

 

この状況に追い討ちをかけるように

人工呼吸器と人工透析の両方に対応できる

療養型の転院先がほとんど無いという問題もあり

病院側でも前例のない状況に

大変苦戦しているということでした。

 

母の闘病は今までとは異なる

新たなステージに立たされました。

 

決して

母の死を望んでいるわけではありません。

 

しかし

この状況下で

母の命に対する尊厳を

どのように見出せばよいのだろうかと

そしてそれを

母にどう伝えたらよいのだろうかと

ひたすらに模索しています。

 

「スパゲッティだらけで生き続けるのは嫌だ!」

 

点滴、人工呼吸器、カテーテル、バルーン…

身体に繋がれた数々の管のことを

「スパゲッティ」だと表現し

尊厳死を主張し抜去を求めたという

かつて見た

海外ドキュメンタリーを思い出します。

 

スパゲッティだらけの母は

今、どんな思いでいるのでしょうか。

 

これはまさに

日本という超高齢化国家が抱えた

医療のあり方や命の尊厳に関する

大きな課題と向き合うことにも

繋がっているような気がします。