宇宙に恋して

こころの声を紡ぎながら、目に見えない世界を探求しています。

自己肯定感について

最近よく見聞きする

「自己肯定感」という言葉。

 

読んで字の如く、なのですが

そもそも自己肯定感が高いというのは

どんな状態なのかを考えていました。

 

取り止めのない考察ですが

今回は私の思考散歩の記録です。

 

よかったらお付き合いくださいね。

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自信がある、自分大好き、

ポジティブシンキング、常に前向き、

何かに取り組む時はいつもワクワクしている…

 

様々な表現がありますが

「自己肯定感が高い」というと

なんとなくポジティブな側面ばかりが

クローズアップされがちですね。

 

「肯定」という言葉に対して

そのようなイメージがあるからでしょうか。

 

本来、自己肯定感というのは、

自分自身に対し

ありのままの自分でOK、

生きているだけで存在価値がある、

と感じている状態を指す言葉です。

 

自信がなくても、

自己評価が低くても、

実績や肩書きがなくても、

そこに「善悪」「優劣」「正誤」といった

ラベルをはりつけることなく

「自分とはそういうものだ」と知っていて

それを自分自身が認めている。

 

要するに「自己を肯定する」というのは

それがどんなラベリングであれ

良い自分も悪い自分もひっくるめて

それを受け入れている状態であると

私はとらえています。

 

故に、人によっては

「前向きに考えよう」とか

「楽しい」や「ワクワク」を選ぼうとか

「自分を褒めよう」という行為そのものが

かえって自己肯定感を下げてしまうことも。

 

努力すればするほど

実践しようとすればするほど

「前向きに考えられない自分」や

「楽しめない自分」や

「ワクワクしない自分」や

「無理に褒めている自分」を

より否定的に捉えてしまうケースがあるからです。

 

では、このような「ラベル」は

いったい誰が何のために付けてしまうのか?!

 

誰が…の部分は

紛れもなく「自分自身」なのでしょうが

最近になって気付いたことがあります。

 

それは、

「自分自身である」と

信じて疑わないものが

いったい何なのかによって

この「ラベリング」をする行為に対しての

とらえ方が大きく変化する、

ということへの気付きでした。

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話は少し逸れますが

そもそも私はさほどポジティブでもなく

気が小さくて臆病です。

日常ではワクワクすることよりも

ネガティブな気分に傾きやすいですし

とても緊張しやすいので本番に弱く

人並みにできないことがいくつかあります。

 

それでも

今は大きな不満も悩みもなく

自分のことを卑下することもなく

他者や環境に苦しむこともなく

おかげさまで毎日充実しています。

 

先ほど私が挙げたワードは

「自己肯定感が低い」人の傾向として

よく出てくるものばかりですが

私はそんな自分の側面に対しても

「それが私だから」と受け入れています。

 

決してひらきなおりや諦めではなく

私の「エゴ(自我)」は

私の「個性」に否定的であることを

認識している状態であるということです。

 

もちろん、若い頃は

そんな私の「個性」である側面が

大嫌いで疎ましいものでした。

 

違う人に成れるものなら

別人に生まれ変わりたいくらい

己の個性を許せずにいましたが

それは私が私の「エゴ」を

私自身であり、私の個性であると

思い込んでいたことに要因がありました。

 

本当の私はこんなはずじゃない

周りに認められない個性などいらない

 

そんな思いに取り憑かれ

エゴの声を「私という命の声」であると

すっかり信じていたものですから

自らはりつけた多くのラベルに

苦しんできたというわけですね。

 

そうなると

自分と似たような個性を持つ人を

許せないし否定したくなりますから

そのような他者に怒りや憎しみを覚えたり、

恐怖を覚えたりもます。

 

自分に無いものは

この世に顕現しないので

こうなってしまうと

どこへ行っても

苦手な人や嫌いな人ばかりが現れ

都合の悪い環境ばかりが目につきます。

 

しかし

精神世界の学びを続けていくうちに

エゴは「肉体」のもつ機能のひとつであって

それが「自分自身」や「個性」を

あらわしているわけではないのだと

知るに至りました。

 

エゴは私の機能の一部であり

私の存在を世界に対して相対的に示そうと

常にラベリングするものではありますが

そのラベルが示す内容が

私の存在価値を決めるものではありません。

 

同時に他者も私を相対的に理解しようと

いろいろラベリングするものではありますが

そのラベルが示す内容も

私の存在価値を決めるものではありません。

 

そして、

私のエゴが他者を理解したつもりになって

他者にいろいろラベリングをしたとしても

それがその人の存在価値を

決めるものでもありません。

 

この境地に思い至ったとき

私の課題であった「自己肯定感」の問題は

いつのまにか問題ではなくなっていました。

 

「みんな違って、みんないい」

この言葉が何を言わんとしているのかを

感得した瞬間でもありました。

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先の見えないコロナ禍の閉塞感からか

ヘイトクライシスや〇〇警察など

「自己肯定感」とは

まるで対極にあるような出来事が

後をたたないと聞きます。

 

個人の意見を述べることと

他者を否定することは

似ていて非なるものだと

私は思っています。

 

ふと「自己正義感」という

思い付きの造語が浮かびました。

 

己の正義を貫くことが最善で

他者の過ちや誤りを正すためなら

どんな方法でも厭わず行うという

強い意思が働くことで

ヘイトスピーチや〇〇警察は

我こそが善良な市民であると信じて

その行為を繰り返しているのかもしれません。

 

他者の違いを許せない、という点では

自己肯定感が低い状態に

どこか似ているようにも思います。

 

個人的な造語ではありますが

エゴが司るのが「自己正義感」であり

命の本質が司るのが

「自己肯定感」なのかもしれないですね。

 

取り止めのない考察になりました。

 

最後までお付き合いいただき

ありがとうございます。

 

もし、興味があれば

あなたの「自己肯定感」についても

是非、考察してみてください。

 

それが「エゴの声」なのか

それとも「命の声」なのか

耳を澄まし、目を凝らし、

観じてみてください。

 

みんな違って、みんないい。

 

そのままのあなたで

素晴らしいということを

あなたにも是非感じてもらえたらと

心から願っています。