正義の味方は苦しい?
十人十色と言いますが
本当にその通りだなと思います。
だから、
10人いたら10の正義がある。
ところが、
「みんな違ってみんないい」と言いながらも
「正義」の名の下に裁かれた途端、
何故か違いが許せなくなります。
そうなると、
人は「間違い」を正そうとします。
例えば人は
自分と海の違いや
自分と山の違いや
あるいは海と山の違いについて
それをどちらか一方に
正そうとはしないと思うのです。
人と人との間にある違いだから
それを「間違い」というのでしょうか。
人は間違いを許せなくなると
怒りや憤りを覚えます。
それが嫌悪感となり
好き嫌いの基準になったりもします。
もしもあなたが
この世の中には「間違い」が多いと感じていて
とても憂鬱な日々を過ごしているならば
それが本当に間違いなのか
自分の正義と違うだけなのかを
じっくり観察してみるといいかもしれません。
自分が揺るぎないと思っている「正義」も
立場が変われば
正すべき「間違い」になることも…。
会社員として組織の中で働いていた頃は
正義の味方になろうと必死でした。
会社の利益のため、
部署の成果のため、
そして自分の評価のために
間違いを探しては駆逐することが
私の仕事と言わんばかりに
正義の剣を振り回してきました。
確かに
評価も待遇も上がっていったし
社内で頼りにされることも増えたけれど
ものすごく苦しかったです。
結果を出せば出すほど
周りから期待されればされるほど
仕事が辛くなって、楽しめなくなって…。
自ら選んで
正義の味方になったのに
私がおりなければ
この戦争は終わらないと気付いた時には
既に身体が壊れていて
私はほぼ強制的に戦線離脱となりました。
あのとき
ようやく平和を選ぶことができて
私は本当に救われたと思っています。
どちらが正しいかを決めるのではなく
何が最善かを生み出すために
争うことなく議論をし
文句を言わず意見を言う。
言葉にすると簡単なことでも
実際には難しいことかもしれません。
私も頭ではわかっているものの
感情に任せて言い争ってしまうことや
よかれと思って文句を言うことがあります。
正義の味方になろうと
躍起になっている自分を感じるとき
私は今この瞬間に
果たして「平和」を選択しているのかを
常に己に問いかけるようにしています。
苦しみを選択していれば
そこには苦しい現実が現れるし
平和を選択していれば
そこには平和な現実が現れるのですから…。
平和とは
誰かの行いを正すよりことよりも
まずは己の在り様を見つめることから
生まれるような気がしています。