宇宙に恋して

こころの声を紡ぎながら、目に見えない世界を探求しています。

正義の味方は苦しい?

十人十色と言いますが

本当にその通りだなと思います。

 

だから、

10人いたら10の正義がある。

 

ところが、

「みんな違ってみんないい」と言いながらも

「正義」の名の下に裁かれた途端、

何故か違いが許せなくなります。

 

そうなると、

人は「間違い」を正そうとします。

 

例えば人は

自分と海の違いや

自分と山の違いや

あるいは海と山の違いについて

それをどちらか一方に

正そうとはしないと思うのです。

 

人と人との間にある違いだから

それを「間違い」というのでしょうか。

f:id:Kougetsu:20190907200547j:image

人は間違いを許せなくなると

怒りや憤りを覚えます。

 

それが嫌悪感となり

好き嫌いの基準になったりもします。

 

もしもあなたが

この世の中には「間違い」が多いと感じていて

とても憂鬱な日々を過ごしているならば

それが本当に間違いなのか

自分の正義と違うだけなのかを

じっくり観察してみるといいかもしれません。

 

自分が揺るぎないと思っている「正義」も

立場が変われば

正すべき「間違い」になることも…。

f:id:Kougetsu:20190907211317j:image

会社員として組織の中で働いていた頃は

正義の味方になろうと必死でした。

 

会社の利益のため、

部署の成果のため、

そして自分の評価のために

間違いを探しては駆逐することが

私の仕事と言わんばかりに

正義の剣を振り回してきました。

 

確かに

評価も待遇も上がっていったし

社内で頼りにされることも増えたけれど

ものすごく苦しかったです。

 

結果を出せば出すほど

周りから期待されればされるほど

仕事が辛くなって、楽しめなくなって…。

 

自ら選んで

正義の味方になったのに

私がおりなければ

この戦争は終わらないと気付いた時には

既に身体が壊れていて

私はほぼ強制的に戦線離脱となりました。

 

あのとき

ようやく平和を選ぶことができて

私は本当に救われたと思っています。

f:id:Kougetsu:20190907211359j:image

どちらが正しいかを決めるのではなく

何が最善かを生み出すために

争うことなく議論をし

文句を言わず意見を言う。

 

言葉にすると簡単なことでも

実際には難しいことかもしれません。

 

私も頭ではわかっているものの

感情に任せて言い争ってしまうことや

よかれと思って文句を言うことがあります。

 

正義の味方になろうと

躍起になっている自分を感じるとき

私は今この瞬間に

果たして「平和」を選択しているのかを

常に己に問いかけるようにしています。

 

苦しみを選択していれば

そこには苦しい現実が現れるし

平和を選択していれば

そこには平和な現実が現れるのですから…。

 

平和とは

誰かの行いを正すよりことよりも

まずは己の在り様を見つめることから

生まれるような気がしています。