宇宙に恋して

こころの声を紡ぎながら、目に見えない世界を探求しています。

我慢

昨夜、母から

じゃがいもを剥いていたら

誤って手を切ってしまい

血が止まらないからなんとかして欲しいと

震える声で電話が入りました。

 

時計は23時15分。

手を切ったのは19時過ぎだというから

随分長い間血が止まっていません。

 

母はワーファリンという薬を飲んでいて

ただでさえ血が止まりにくいのに

なんでも指先を削ってしまったとのこと。

 

血が止まらないことに関しては

私に相談しても解決はできないので

まずは救急車を呼ぶように言ったところ

このくらいで救急車を呼ぶのは

恥ずかしいと言うんです。

 

だから私に何とかして欲しいと。

 

しかし

私が行ったところで

止血ができるわけでもないので

とにかく救急車を呼んで

かかりつけの大学病院へ

搬送してもらうように説得し

救急車を呼んだら

もう一度電話するようにと

いったん電話を切りました。

 

これ、

救急車は呼びたくないけれど

出血は今すぐ止めて欲しいという

目的と手段がごちゃまぜになった

典型的な事例だなと感じました。

 

救急車を呼ぶことは

本来の目的のための手段にすぎないのに

それをあたかも

同列の目的のように考えてしまうから

本当に解決すべき問題よりも

そちらが優先されてしまっている状態です。

 

高齢者に限らず

パニックになっているときというのは

そういう思考に陥りやすいのかもしれません。

 

母からの電話を待たずに

私もすぐに家を出ました。

 

程なく、

救急車を呼んだと連絡が入ったので

そっちに向かっているから

救急車が到着したら

もう一度電話をするようにと言って

電話を切りました。

 

救急車到着の連絡と

私の到着はほぼ同時だったので

救急隊員の方と直接お話をし

かかりつけの大学病院での

急患受け入れをお願いしてもらえたので

どうにかスムーズに搬送することができました。

 

結果的には

指先を2針縫う怪我でしたから

どのみち私では対処できないものでしたし

出血のショックからか

救急車に乗ったときには

血圧もかなり高くなっていて

自力で歩くことが

既に困難な状態にまでなっていたものだから

搬送している最中に救急隊員の方からも

こんなに我慢しないで

もっと早く救急車を呼んでくださいね、と

言われていました。

 

私に言われると反発する母も

救急隊員の方の言葉には

素直に応えていましたね。

 

恥をかきたくないという思いや

人に迷惑をかけたくないという思いから

悪化していく状況の中で

4時間近くも

ひとりで我慢しているなんていうのは

私には到底できないことですが、

 

救急車を呼ぶことが恥ずかしい、

近所迷惑になるから呼びたくない、

このくらいで救急車を呼ぶなんて恥ずかしい、


そんな思いから

怪我や不調を我慢してしまう高齢者は

意外と多いのかもしれません。

 

今の時期だと

熱中症の問題なども深刻ですよね。


過剰な我慢は

自分のためにも

家族のためにもなりません。


助けて!と言うことは

恥ずかしいことではないんです。


一方で

話し相手欲しさに

些細なことでも

救急車を呼んでしまうという

高齢者もいると聞きます。

 

難しい問題ですね。

 

人に頼れなくて我慢すること、

人任せにして我慢できないこと、

まったく相反することですが

どちらも根底にあるのは

同じ問題のような気がしてなりません。

 

自分と自分以外の全てが

分離しているという幻想こそが

根底にあるように感じています。

 

自分を大切にすることは

結果として自分以外の全てを

大切にすることになります。

 

自分と世界は分離しているのではなく

世界は自分そのものなのですから。

 

外側の世界があなたを定義するのではなく

あなたが世界を定義しているのです。

 

何はともあれ

私に「助けて!」を言えたことで

母の問題は解決しました。

 

高齢者に限らず

我慢というのは

なかなか厄介なものですよね。

 

自戒の意味も込めて

今回の出来事をブログにしてみました。

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