宇宙に恋して

こころの声を紡ぎながら、目に見えない世界を探求しています。

エゴと執着

精神世界の学びをはじめたばかりのころ、

「エゴと執着」は諸悪の根源、みたいな

思い込みをもって取り組んでいました。

 

そういった側面も

無きにしも非ずなのですが

それがすべてでもありません。

 

エゴと執着がなくなれば

幸せになれると信じて疑わなかったけれど

生きている限り

エゴも執着も

なくなることはないのだ、ということに

ようやく最近気が付きました。

 

そもそも、

なくそう、なくそう、としていること自体が

エゴと執着のあらわれですからね。

 

先日、

瞑想指導者向けのセミナーに参加し

無と空の違いについて

概念の整理をしました。

 

違うとわかっていても

どう違うのかが明確になることで

視界が広くなりますね。

 

漠然としていた

エゴと執着の概念についても

現時点での輪郭が

少しはっきりした気がしています。

 

昨日はあらわになったエゴに対して

思いを馳せていました。

 

情動に強く反応した結果として

非常に苦しい思いをしたからです。

 

こんなに学んできても

自分を変えることが

相当嫌なのだと思いました。

 

否、

 

既に変化しているのだと

受け入れること自体が

苦しいということですね。

 

表面的には

その存在を感じていなくても

根底には怒りの感情があります。

 

怒りの元をたどってゆけば

自我形成における

欠乏感にたどり着きます。

 

欠乏感は更に

恐怖へとたどり着きます。

 

エゴを構成している要素が

消滅したり、取り除かれようとしたり、

何らかの要因で欠乏感が出ると

人は必死に

それを補う若しくは守ろうとします。

 

私、という確立した個を維持するために

そういう反応が出てしまうんですね。

 

遠回りなようだけれど

今のところは反応の都度都度、

気付いていくしかないようです。

 

原因がわからないから不安にもなるし

反射的に思考や行動が走ってしまいます。

 

苦しきを感じるときには

怒りの感情に気付いていくことが

ちょっとしたポイントかなと思いました。

 

怒りの感情に気付いたら

その先にある恐怖を内観してみる。

 

いったい、

何を恐れているのかを知ることが

抜苦与楽の鍵のように思います。

 

エゴも執着もなくなりません。

 

しかし、

あるからこそ、無いとも言えます。

 

エゴも執着もあるからこそ

抜苦与楽が可能になるので。

 

必死になって

無くそう!としなくても

あるのだから、無いのと同じなので。

 

これが

無と空の違いとでも言いましょうか。

 

空観することができれば

無くそうと必死にならなくてもいい。

 

自らのエゴを見つめながら

そんなことを思った夜でした。

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