宇宙に恋して

こころの声を紡ぎながら、目に見えない世界を探求しています。

人を見る

昨夜、車を運転している時に

愛車のヘッドライトの

片目が点灯していないことに気付きました。

 

警告灯が点かないのに

ヘッドライトが点いていないというのは

なんとなく、よろしくない感じです。

 

出先だったので

とりあえずディーラーに電話して

状況を説明して整備の予約をとりました。

 

帰宅して

自動車整備士の夫に

ヘッドライトが片側点かなくなったから

ディーラーに出す前に

状況だけ簡単に見ておいてとお願いして

夕飯の支度に取り掛かりました。

 

程なく

彼が戻って来て一言。

 

「ライト、点いてるんだけど…」

 

えっ?!えええっ?!!

 

慌てて玄関先に出ると

確かに点いています。

 

えぇーっ!!

ちゃんと降りて確認したのに?!

 

「左右で光色が違うから

       本当に片方は消えてただろうけど

    まぁ、なんでか今は点いてるから

        すぐに原因を特定するのは無理だな。」

 

はい、仰る通りで…。

 

車の不具合において

現象が再現しないというのが

一番厄介なのです。

 

しかも、私の愛車、

どういうわけなのか、

不調があって彼に見せる時には

決まって現象が出ないんです。

 

もしや、人を見ているのでは…?! 

 

彼の前では良い子で

不具合の片鱗も見せない私の車(笑)

 

車も命の乗り物なので

乗せる命によって、

かかわる命によって、

実態が変わるのかもしれません。

 

彼の世界と私の世界では

同じ車であっても

その在り方が

違うということになります。

 

車が人を見ている、というよりも

車を見ている人によって

車の在り方が変わっているとも言えます。

 

この世は全て幻想(仮観)なので…。

 

要するに、

目の前に広がっている世界は

全て自分が創造している、

ということになりますね(笑)

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さて、

人を見る、と言えば。

 

お釈迦様の説法も

聞く人に合わせた方便を

使ったと言われています。

 

コミュニケーションを取るうえで

相手の立場や成長を考慮することは

とても大切なことだと思います。

 

特に

何かを伝えたり、教えたりするとき、

それが

相手にとって未知の領域であることを

考慮して発信しなければ

なんのことやらわからなくなります。

 

自分の世界での当たり前は

自分以外の世界では

通用しないということですね。

 

人を見て対応を変えると言うと

なんだかズル賢い感じもしますが

そこに悪意がなければ

とても賢い行為です。

 

それぞれが

独り善がりになってしまって

自分の正義が全てとなってしまったら

争いは永遠に無くなりません。

 

「違い」と「間違い」について

言葉の意味や使い方を知らない人は

少ないとは思いますが

同じような使い方をすることもありますし

混同して使っている場合もよくあります。

 

私なりの見解として、

 

まず、

違い、というのは

人それぞれの主観の違い、

人種の違い、宗教の違い、性別の違い…など

そこに善悪や正誤、優劣といった

差異が含まれない場合に使います。

 

英語にするとdifferenceですね。

 

そして、

間違い、というのは

何かの間にある違い、

関係性の中にある違いです。

 

何かしらの条件下で

共有されている基準やルールに対して

差異が発生した場合に使ったり

問題に対する解が明確な場合、

そこに該当しない解に対して使ったり。

 

計算間違い、誤字脱字、

聞き間違い、言い間違い…。

 

英語にするとerrorです。

 

こうやって文字にすれば

あぁ、そうかもね、と、なりますが

実際には

この「違い」と「間違い」を

混同していることが案外多いんです。

 

人種差別などはいい例で

単なる「違い」に対して

何かしらの条件を付加して

「間違い」として認識しているわけです。

 

人種差別のような大きな問題に限らず

日常的なコミュニケーションの現場でも

「違い」と「間違い」の混同から

苦しみを生み出していることは多々あります。

 

少し前に、よく見聞きしたフレーズで

「みんな違って、みんないい」

というのがありましたが

これを「間違い」と混同させてしまったら

何をやってもいいということになります。

 

「みんな違って、みんないい、とか言って

       結局、違うことはやっちゃダメなの?!」

 

…なんていう

叱られた子供の反論が聞こえてきそうです。

 

まさに「違い」と「間違い」を

混同している状態ですね。

 

改めて、

言葉は便利だけれど

なかなか難しいツールだなぁと感じます。

 

相手の世界を考慮した上で

私の世界を共有すること。

 

私の当たり前は

私にしか通用しないということ。

 

人を見る、というのは

人の顔色を見ろ、とか

空気を読め、とか

そういうことではく

私との違いを見る、ということです。

 

そして、

私との違いを理解したうえで

相手にかかわることにより

相手との共感につながります。

 

決して

同じ気持ちになることや

同じ考えに至ることだけが

共感ではありません。

 

もし、それを言葉にするならば

それは、同情の方がしっくりきます。

 

違いは間違いではありません。

同じ気持ちや同じ考えに至らなくても

それは違いであって、間違いではないのです。

 

コミュニケーションの問題というのは

そんなちょっとした認識の違いから

おこっているのかもしれませんね。

 

人間関係に行き詰まったときは

一旦、間違い探しをやめて

自分との違いを理解するところから

はじめてみませんか。

 

人を見て

自分の在り方を見直してみる。

 

これだけで

楽になることは

案外たくさんあると思いますよ。