宇宙に恋して

こころの声を紡ぎながら、目に見えない世界を探求しています。

色気づく

私は「ひとりっ子」です。

 

今どきは

ひとりっ子はそんなに珍しくもないですが

私の生まれた時代は第二次ベビーブームといって

本当に子どもが多い時代でした。

 

ひとりっ子はどちらかといえば少数派。

兄弟姉妹のいるおうちのほうが

圧倒的に多かった時代です。

 

子供のころには、

「ひとりっ子はわがまま」などと

何かと否定的に言われたものです。

 

自分は我慢しているつもりでも

「我慢できない人」と

見えてしまうことが多かったのでしょうね。

 

社会生活を営む上で

これは致命的な欠陥です。

 

子供のころはなおさら重篤です。

同世代のお友達とうまく遊べません。

 

場合によっては

ちょっと意見したとたんに

「ほら、やっぱりわがままだ!」となる。

 

私からみたら

周りはよほどわがままにやっていて

ほかの人に配慮する余地もないのに

ちょっと違うことをしようものなら

ものすごい剣幕で否定されてしまいます。

 

 

どうして、

私は人と同じじゃないんだろう。

 

これは私の幼少期における大命題でした。

 

大人はこんなとき必ず言います。

 

人は人、自分は自分。

よそはよそ、うちはうち。

 

でも、

人と同じようにしないと叱られます。

遊び相手すらみつかりません。

 

幼い私の中で

この矛盾はとても大きな問題でした。

 

どうして

私だけこんなに違うんだろう。

 

結論から言えば

同じ人などひとりもいないので

私だけ違うのではなく

みんな違うのですが(笑)

 

それに気が付いたのは

ずいぶん大人になってからなので

そんなことを知らない幼い私は

悶々と生き続けていきます。

 

いつしか

これはひょっとしたら

物語の世界なのではないだろうか?と

考えるようになります。

 

だったら、

周りを見て配役を演じればいいだけです。

 

となると、

 

「私というのは、あるけど、ない」

 

ということに気付きます。

 

…ここまでだと

今なら「すごい!よく気が付いたね!」と

幼少期の私をほめてあげたいくらいですが

そうはうまくいかないものです。

 

どうせ無いなら

やりたいことはひとりでやって

みんなといるときには雰囲気に合わせよう。

 

その場がうまくいくならば

人にも自分にも嘘をつくことが平気になります。

 

そもそも

これは物語(フィクション)である

という発想からそうなっていくんですね。

 

心理学的な見地からすると

問題行動のひとつとも言えます。

 

ただ、皮肉にも、

そういうい行動を選択するようになってからは

いわゆる協調性の問題について

ひどく指摘されることがなくなるんですね。

 

こうやって

形成されていく心の問題というのは

気付きにくく根深いものだったりもしますが

ひとまず今回はその話は抜きにして。

 

幼い私が見つけた

「そつなく生きるテクニック」も

残念ながら思春期を迎えるころには

通用しなくなります。

 

エキストラでは満足できず

主人公になりたい!という欲求が芽生えます。

 

与えられた配役を演じるのではなく

演じたい役を探しだすのです!!

 

もっと言えば、

 

これは物語じゃない!

リアルな現実を私は生きている!!!

 

もう嘘をついて生きるのはごめんだ!!

 

私は「ない」のではない!!

私は絶対に「ある」!!!

 

…てな具合に

 

何者でもない、

私という特別な個を意識するわけです。

 

これがおそらく

中二病」とか「自分探し」とか

そんな言葉で表現されているものかもしれません。

 

中二病」なんて本当に言い得て妙で

はじめに言い出した人はすごいなと思うのですが

確かに中学2年生になるころには

完全にヒロイン願望全開でしたからね。

 

要するに「色気づく」ってことです。

 

但し、

未成年で大人の管轄下にある状態ですから

この自我との戦いは壮絶ですよね。

 

反抗期があるのも納得です。

 

さて、

私の黒歴史公開みたいな

ブログになっていますが(笑)

 

幼少期から思春期にかけて

私の経験してきたことというのは

 

色即是空 空即是色

 

これだったんだなぁ、と

ちょっと振り返ってみた次第です。

 

もちろん、

いいとか悪いとかそういう話ではありません。

 

知らず知らずに通ってきた道だけれど

仏の道はずっと足元にあったのだな、と

幼少期から思春期を振り返る中で

46歳の私が気付いたわけですね。

 

縁起により「色」として顕現した私は

他の「色」との違いを目の当たりにします。

 

どうして私はここに在るのか。

ここには私と私以外のものしかないなんて本当?!

 

そんな幼少期に感じた圧倒的な孤独感の中で

私は物語の一部であるという思考に

救いを求めたわけです。

 

私はある(色)けれど

私はない(空)のだから

どんな役でも演じられる、と。

 

しかし、

思春期になり

私は他にはない唯一無二の存在である

私という存在が

自分の中にあるということに気が付きます。

 

自我やエゴと表現してもいい。

又は我欲や煩悩でもいいかもしれませんね。

 

めらめらと燃える炎のごとく

それは熱を帯びて私に訴えかけてきます。

 

まさに!!

 

「色気づく」っていうことは

そういうことなのかもしれませんよ?!

 

自らが「色」である要素に気付くから

い・ろ・け・づ・く…っていう(笑)

 

すみません、これは独自解釈なので

あまり真に受けないでくださいね。

 

今日、一番伝えたかったことは

「仏の道はいつも足元にある」ということです。

 

どんな人生であっても

救いのない人生はない。

 

もっと言うと

 

その道を見たければ

いつでも足元にあるのだ、ということです。

 

草を刈り、泥をかき分け、石を避ければ

必ずその足元には仏道があります。

 

仏教とは

 

その

草を刈り、泥をかき分け、石を避け、

道を顕わにする方法について

説いているものなのかもしれませんね。

 

「自灯明、法灯明」

 

お釈迦様の最後の言葉とされています。

 

「自己を拠りどころとし、法を拠りどころとせよ」

 

他力により救われている私たちであっても

自らを拠りどころにして生きることの大切さを

お釈迦様は説いたのではないでしょうか。

 

自らが「色」であることに気付くことも

自灯明に必要不可欠なことだと思います。

 

そう思えば

思春期とはとてもありがたい時期ですね!

 

私の周りにも

お子様の反抗期に悩む親御さんが多く

育児を知らない私は

ただ話を聞くくらいしかできないのですが

 

反抗期=色気づく=自灯明の第一歩

 

そう思うと

必死に反抗期を生きているお子様方のことを

応援したくなってきますね。

 

私も色気づいて

本当によかったです(笑)

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